途中経過と変化、そしてこれからのこと少し
自分で自分を褒めるようにすると決めてから数週間が経って、少しずつ変化がありました。
まず、自分自身で自分を素直に見られるようになったこと。
以前だと、こう見られたい、こう思われてるから…など、何かに合わせていこうとしていました。
でも、自分自身、ありのままで少しずついられるようになった気がします。
次に、本当はこんな人になりたいんだ、こういうのを目指しているんだ、という声が聞こえるようになったこと。
本当は、確かにカッコいい、クールなのも憧れるけれど、本当はクールではなく可愛い部分だったり、柔らかくて、おおらかで、穏やかな人という性質が自分の本当で、それが合っているんだ、そういう部分を認めて、そうなりたいんだというのが少しずつ分かってきました。
そして、驚いた一番の変化。
顔つきが変わったのです。
自分で褒めるのを心がけてから。
自分はそのままでもかっこいいよ、と。
そうすることで、本当に少しずつ顔つきが柔らかくなり、かっこよくなったのです。
これは、主観だけでなく、客観的にも言われるようになったことです。
纏っている空気も含め、柔らかくなったね、穏やかな顔つきでかっこよくなったね、と。
自分を褒めると決めてから、考え方も少しずつ変わって、わくわくすることをもっと追いたくなったり、目に入ってくる情報が今までと違っていたり。
今までなら、理由もなくネガティブに飲まれたりすることが多かったにもかかわらず、ここ最近はほとんどありませんでした。
今までは、自分の固定概念で苦しくしていた、考え方次第でもっと楽しくできたり、前向きになれたり、昔ならこの世の終わりなのか、と思うくらいの空気を持ったり、捉えてしまっていたことも、思ってたよりも悪くないことばかりじゃないか、と。
自分自身、ここまで変わるなんて思いませんでした。
もちろん、怖い部分や、変わることでどんどん今までの環境に疑問を持ってしまっていますが、そこからどう変わっていけるか、どう生きていくか、ワクワクもしています。
今まで、出来てなかった、意図的にしなかったこと、もっともっとしていこうと思います。
本当に、これから生きていくのが楽しみです。
受け入れること、受け取ること
ある本を最近読んでいて、それは小説なのに、なんだか小説のふりをした生き方を変えてくれるような本であるような気がします。
その中で、心の声をすべてきちんと理解することの大切さを書いていました。
今、日常を過ごしている大半の人は、社会にもまれている大半の人は心の声を正確に聞き取れない気がします。
少なくとも自分はそうです。
心が何も言わないのです。
疲れた、お腹がすいた、不安だ、幸せだ、こうしたい・・・
そんな声が聞こえないのです。
それはきっと、聞こえないのではなく、心がしゃべれなくなっているのだと思います。
心ってどこにあるのか、と考え出すと難しいですが、きっと感覚や感情や意思などを総合的に心と呼んでいるのだと思います。
ネガティブに考えるのも、ハッピーに考えるのも心です。
その心が伝えようとしている、あるいは発している言葉と丁寧に辛抱強く向き合うと、いろいろな発見があり、それが良い方向へと導いてくれる道筋のスタートラインだと思います。
なので、ネガティブなことを言っていたとしても、ハッピーなことを言っていたとしても、すべて耳を傾け、否定せず、優しい言葉で応答してみることが大切です。
そして、それらをまるっと受け入れることでフラットになり、幸福の前兆に気づいたり、なにか重要なことが見えてくる、そんな気がします。
それは本来の、人の能力だと思います。
すべてを赦し、受け入れる。
難しいことです。もちろん、すべてを許容するということではありません。
だめなことはだめだとたしなめることも重要です。
ですが、固定概念にとらわれて、がちがちに固めて、肩に力が入るのも良くありません。
受け入れる準備をきちんとして、きちんと心に向き合いましょう。
そして、受け入れる準備が出来たなら、受け取ることも同時にしましょう。
何でも、望んだものを受け取って良いのです。
受け取ることを恐れないように。受け取る資格がないだなんてもったいないことを思わないように。
受け取って良いんです。受け取りましょう、望むことを。
今を、現在だけを見る
やりたことを本当にやっている人はなんて輝いて見えるのだろう。
そんな人と一緒にいると、心から幸せを感じ、心から憧れを抱く。
過去でも、未来でもなく、ただ今を見ている。
今を見ることが大切。
今を生きることが大切。
きっと、人はそれぞれ幸せになるのが本来の姿だろうし、起こる出来事も本当は何事も決まっていて、すべて望むもの、望むことの前兆なんだと思います。
その前兆を見逃して、人が勝手にルールや社会を決めて、自分のことを枠にはめているだけだと思います。
そうすることで、過去を後悔し、未来を心配してしまうのだと思います。
自己肯定感の低さも、自信のなさも、要らぬ心配をして、従っていけば良いことに従えずに外れてしまうからそうなってしまうのかもしれません。
今だけを見て。
よく考えて、前兆を見逃さずに、日々を、一日一日を大切に生きればきっと何も怖くない。
人はみんな輝ける。
ただ心から幸福を感じて、穏やかさを感じて、丁寧に生きましょう。
日記的な、心境の記録
ネガティブな思考回路や言葉遣いというものは不思議なもので、まったくマイナスな意識をしていないときやそのつもりがまったくないときでさえ、その方向に進んで、知らず知らずのうちにネガティブに聞こえてしまう発言をしてしまうみたいです。
そう簡単には変えられないみたい。
そもそも、なんで変わろうとしているのだろう。
みんな、こんなに苦しい思いなんてしていないんじゃないか。
それともみんな気づかないフリをしてるから、平気そうで、気づいた自分はこれから先より良くなっていくのか。
変わろうとすることはとても労力の要ることで、しかも終わりなんてありません。
今、自分がふただび変わろうとしていて、でもすぐには人間変われないもので、
もどかしくなるとき、疲れてしまうとき、ふとなんで変わろうとしているのかと疑問に思うとき、出てきます。
自分を褒めることだって、無理にしなければ出来ないときだってあります。
でもやるしかない。
変わりたいから変わる。
ネガティブな自分にさよならを言いたいから変わる。
いつだってシンプル。
強くなったね、自分。かっこいいよ。
着実に、成長していっているから、安心して。
大丈夫。
雑記、思ったことをつらつらと
子どもの頃、自分は何でも出来る、何にでもなれると信じて疑っていませんでした。
アクション映画の主人公みたいに、高いところから飛んでも平気だったり、望めばレーサーにでも、先生にでも、警察官にでも、海外に移住することだって出来る。
想像力豊かだった気がします。
でも、いつからだろう。
そんなことを考えたり、望むことも忘れて、目の前のことに不満を感じていないフリをして、わくわくするような妄想、想像もできなくなって、でもこれが現実だと必死で言い聞かせようとしていました。
そして、気づけば自己肯定感が低くて、ネガティブで、周りの目を気にしてやってみたいことも出来ず、日々に追われていました。
こんなはずじゃなかったのに。
でも、じゃあどんなはずだった?
そんなことすら思い出せない。ある意味、諦めにも近かったように思います。
自分を認める事も出来ず、かといって頑張るわけでもなく。
なにが原因か、自分を直視しようとせず、問題に直面したくなくて見ないフリ。
純粋なようでいて、何層ものしがらみや固定概念がありました。
いろいろなきっかけが重なって、それを直視せざるを得なかったとき、少しずつ変わろうと思っていったとき、そのベールみたいなものが取れ、無防備でした。
無防備だからこそ、今まで傷つかなかったようなことで傷ついたり、いらいらしたり、無気力になったり。
まるで、反抗期になった気分で周りのものすべてが敵のように思えた時期もありました。
それを経て、またこうして書くようになり、いろいろと気づいたこと、だめだと改めて向き合って、たくさん自分に絶望して、また何か抜けたような気がします。
そして、同時に子どもの頃のように、今でも望めば何でも出来ること、何にでもなれること、飛び降りても平気というわけにはいきませんが、せめて自分の人生を生きる主人公、アドリブの、台本のない物語の主人公にならいつでもなることが出来る。
またひとつ、大切なことを思い出した感覚です。
子どものときに感じてたワクワクする感覚は、大人になったときにこそ必要で、そこから自己肯定感、ポジティブさが生まれると思います。
きっと、これから先何もかもうまくいく。
きっと今までよりももっとワクワクする、輝いた生活が待っている。
そのためにはいつでも自分と向き合うことが必要。
プライドなんて役に立たないものをずっと持っているより、そんなものを捨てて身軽になりましょう。
確固たる自分と、余裕を持って。
勝手に創り出したもの
やってみたいこと、やりたいことが少しずつ見えてきて、一つ前の内容の、自分で自分を褒めちぎる実験を始めてみて、こんなに早くに、という感じですが心境の変化や考え方が急速に変わっていってるのを感じます。
そして、今朝から漠然と思っていたことが、やっぱり合っていたんだということが分かることがありました。
最近、薦められてアルケミストという小説を読み始めました。
その中で、何をやるのも自由なはずなのに、自分で制限してやらないという選択を自ら知らないうちに選んでいる、といった内容のことが書かれていました。
まさに今朝から漠然と思っていたことを具現化してもらったような気分になりました。
やりたいこと、やってみたいことというのは潜在的に最適なものを選んでいるはずなのです。
なのに。
今の自分の能力では出来ない、もっと上の人がいる、今それをやってしまうと生活できなくなるんじゃないか・・・
そんな不安がよぎることがあります。
もちろん、生活を省みずに、現状のおかれた状況を省みずにやろうとすることは幸せではありません。
ですが、学生ではない今、何事も自由なのです。
決まりもほとんどなく、かといって誰かが助けてくれるわけでもない。
なのに、自分で制限してしまってやらない。
なにも制限されてないはずなのに。
基本的には自由なのです。
制限してしまうのは、自分の中で持ってしまっていた、ただの固定概念なのです。
誰かに迷惑をかける、だとか法律を破る、だとか、そういうことは決してしてはいけません。それは固定概念ではなく、社会的ルールやモラルです。
今言っているのは、せっかくやれる環境にあるのに、ネガティブに考えたりどうせ自分は出来ない、と過小評価してしまう固定概念のことです。
たとえやりたいことを達成できなかったとしても良いんです。
やってみた、その結果として自分が満足できればそれで良いんです。
自由になりましょう。
哲学者キルケゴールはよく言ったそうです。
"さあ、人間になりましょう。"
人間だけなのです、感情や、考えて芸術や文学や、文化的なことが出来るのは。
何も制限はありません。
少しずつ、固定概念を取っ払いましょう。
実験をしてみるような軽い気持ちで
性格というものはなかなか変えることが難しい。
そう言われています。
確かに、本当にそうで、数十年気づかずに持ち合わせていた固定概念や思考回路というものはなかなか変えられそうで気づいたら元に戻っていたりしています。
自己肯定感の低さやネガティブフィルターなどもそうです。
一番根底にあることはやはり自己肯定感の低さ。
なんとかならないだろうか。
いろいろと考えました。
そこで、単純でかつ気軽に出来ることを思いつきました。
自分で自分のことを褒める、褒めちぎる。
最初はハッタリでもいいから自信を持ち合わせること。
言葉にすると馬鹿らしくも見えますが、やってみると案外気持ちにゆとりが出来たり気分が軽くなったりします。
「今日もかっこいい/かわいいじゃないか」「さすが自分、センスある」「出来る人だ自分は」などなど。
実際に口に出すと本当に馬鹿らしくなるかもしれないので、あくまで心の中で。
そして、自信は持っても悪い意味で調子に乗らないようにだけ気をつけて。
自ずと自分の存在価値や考え方がポジティブになったり、纏う空気感が明るくなったように感じると思います。
まだまだ始めたばかりですが、きちんと続けば途中報告も書こうと思います。
きっと、そういう言葉を放つことで良いものや幸運、恵まれた環境を引き寄せるのかもしれません。
昨日の内容ではないですが、発する言葉の力は強大です。
ならばそれを味方につける。シンプルなこと。
きっと、もっともっと輝いて世界が見えて、楽しくて、良いことの連続になって、ネガティブだったことが嘘のよう、自己肯定感が高まる未来があるはずです。
もちろん、これだけじゃなく、もっともっと自分と向き合って、もっともっと生きやすく、シンプルに、肩の力を抜いたい人になりたいので、もっともっと模索して、文章を書いていこうと思います。
直面する勇気を持って、文章にも残して、しかも文才あるんじゃない?
さすが自分、見直した!