飢えと役割
昨日気づいたこと。
改めて、愛情に飢えていると思う。
飢えているから、もっと、もっと、と望んでしまう。
どうしてだろう。
そんな風に、いつからなってしまったのか。
思い返したら、恋愛面では喜ぶのが見たいと思っていろいろと要求に応えようと必死になっていたり、いわゆるgiveばかりだったと思う。
でも、それは喜ぶのが見たいと思い込んでいただけで無理をしていたんだと思う。
恋愛に限らず、日常でも優しい人、いい子、というようなことを演じていた。
むしろ、演じていることさえ気づかないくらいの重傷だった。
そういうのをなんとかするためにカウンセリングに行ったり、本を読んだり、調べたりして、マシになってたと思ってた。
そして昨日。
些細なことで険悪な空気になった。
それを、どうしてそう思うんだろう。イメージする関係とは全く違う。
同じ空間なのにさみしくなる。
なぜ?
そんなことを考えた。
そして自分なりに出した結論。
まだ愛情に飢えていて、さみしがりなのにそれを認められない自分がいる。
なにかをしなきゃ得られない愛情なんかじゃない、今は。
なにかをしてあげなくても愛情を注いでくれる人が近くにいる。
それを、今までの陳腐な経験や癖だけで見ようとしてた。
結局のところ、自分じゃないか。素直に自分を認められていないんだ、まだ。
怖くても、もっと自分を素直に認めて、さらけ出して、ずっといるという覚悟をするなら、偽りなんか今すぐ捨てよう。
そう思えた。
もし、自分が愛情を注いで(上記のように無理して、ではなく)、注がれて過ごしていけば、それでうまく回っていくはず。
誠実さと真面目さは自分の長所の一つだと思っているし、それなら誠実に、裏表なく過ごそう。
やりたくなければやらない、感謝の気持ちが湧き上がれば素直に感謝する、喜ばしいことなら一緒に喜ぶ。
単純だし、それが歯車があったようにぴたっとはまれば、それが自分の役割なんだ。
何も大げさなことをする必要はないし、喜ばせたい、ただそれだけの気持ちで何かしようとするならすればいいし。
打算や、こうしたからこうしてくれるだろうみたいな独りよがりの期待はやめにしよう。
普通に期待するのと、独りよがりの期待は似て非なるものだ。
それは期待ではなくエゴ。
もっとシンプルに考えよう。シンプルに生きよう。
シンプルに、ていねいに。
人生がもったいない。
大丈夫、ちゃんと愛情を注がれてるし、小さいことや、自分をさらけ出しても、そんなことで離れてなんかいかない。
ちゃんと認識しよう。
ちゃんと周りの近しい人にも大切にされてるから、自分でも大切にしようよ。
本当は飢えてなんかいないよ。
大丈夫。
改めて、本当の優しい心を持って。ちゃんと持ってるのは自覚してるはずだから。
おおらかで、やわらかくて、優しい心を。